私、五年ほど前に日本の皆様方から浄財を喜捨して頂き、 ミャンマー中央部の都市メッティラー県で、 お寺の境内に日本語教室を建てさせて頂いたのをご縁に、 (お陰さまで今年の四月には二階建ての二棟目の新しい教室も完成しました。) 毎年1〜2回はミャンマーを訪れさせて頂き、 前の戦いでいかに多くの日本兵士の皆様が、 このミャンマーの各地で悲惨な目に遇われたか。 また傷つき病に倒れ敵軍の追っ手から逃げまわる元日本兵が、 戦いの巻き添えをくい家屋を失い田畑が荒地同然になりながらも、 彼等をかくまい助けて下さった、多くのミャンマーの人々のお陰で生き延びられ、 日本へ生還されたのかを知ったのです。 あの惨めな敗戦から今年はもう早60年。 私はあえて敗戦と呼ばさせて頂く。 決して苦しい戦いを終え平和な日本になった終戦記念日なんかではない。 戦いに敗れ住む家も無く食べる物さえ何も無い、 焼け野原の中から生き延びる為に、日本国を子孫に残す為に、 新しい平和日本の建設に向かって第一歩を踏み出した記念日だ。 決して戦いを終え平和日本を取り戻した日ではないのだ、 アジア諸国や日本の多くの人々の貴重な命を犠牲の上に、 今日世界の経済大国と言われる、新日本国建設の第一歩を踏み出した 記念すべき日なのだと私は常々思っている。 インパール作戦・白骨街道と言ってももう歴史の彼方に押し流され、 今時の若い人に言えば 『インパール作戦・白骨街道ってなに?』と問われるだけ。 私は昭和16年の第二次世界大戦開戦の年生まれなので、 直接的な戦争体験はありませんが、 あの戦争ではミャンマーでだけではなく、 アジア中のアチラコチラで多くの兵士の皆さんや罪もない一般人が、 無念な思いで亡くなって逝かれたと聞いています。 そして生き残った戦友たちが、戦後過っての激戦地を訪れ慰霊碑を建てられ、 亡き戦友の霊を慰めておられるのも見てきました。 今年の三月にミャンマーを旅したときにも、 第二の都市と言われているマンダレーで、 30年間も毎年欠かさず、ミャンマーの土地に眠る戦友達の慰霊に訪れ “慰霊碑を管理してくださっている地元の僧院や村々に、 学校や診療所などを喜捨させて頂いている” とおっしゃる、 87歳の大阪茨木市にお住いの稲田さんという元日本兵にお逢いし 『稲田さんはこのミャンマーの地で眠っておられる戦友達の慰霊のためだけでに、 30年間も時間とお金をかけて毎年ミャンマーへ来ておられるのですか?』 とお聞きしたところ 『それもあります、が、私達の部隊がインパールで戦いに敗れ、 武器も食料もなくタイ国境へ向かって敗走しているときに、 とある田舎町の橋にかかったとき、いかにも貧しそうな60歳くらいのご婦人が “これ僅かで申し訳ありませんがどうか食べて頂けませんか? 受け取っていただけませんか” と言って、ボロボロの布に包んだ3合ばかりの米を、 乞食と言った方が早いような我々敗残の兵・それも敵国の兵に 差し出して下さったのです。 勝ち戦の時なら、地元の人達が食料を部隊に差し入れて下さるのは普通の事ですが、 武器も食料もなく傷つき敗走中の兵士に、 地元の人・言わば敵地の住民が、食料を差し入れて下さるなんって考えられますか? 私はあのときのあの婦人の顔が忘れられないのです。 故郷の京都に命からがら帰還し、 戦地で死んでいった戦友の分まで頑張らなければと事業を興し、 どうにか世間からは成功者と呼ばれるようなっても、 碌な食べ物もなく栄養失調になりマラリヤや熱帯病にやられ、 ジャングルで倒れ他国の土となった戦友や、 あの時お米を下さったミャンマー婦人のことが何時も頭から離れず、 30年前に遺骨集収団の一員として 厚生省の役人と一緒にミャンマーの地を再び踏んでいらい、 毎年この地を訪れているのです』と語ってくださった。 私はアジア各地を比丘として遍歴させて頂いていますが、 ミャンマーほど多くの元日本兵達が幾度となく訪れ、 時には戦友会として時には一個人として、 過っての戦いの地に公共設備を寄付したり、 街の発展に手を差し延べておられるのを ミャンマー以外では見たことがありません。 中には戦後命からがら内地へ引き上げられ事業を興され、 それなりに成功された方がお亡くなりになるとき 『俺が今日の成功を見られたのは、あの戦いで敵から逃げ落ちるとき、 傷つき病に倒れ歩く事も出来なかった俺に食事を与えて下さり、 病と傷が癒えるまで敵の目から隠まってくれたこの街の人のお陰だ』 と言って、何千万ものお金を 『街の発展に使ってくれ』 と寄付して死んで逝かれる元兵士たちが多く居られると言う事実です。 こんな話をミャンマー以外の国で聞いたことはありません。 稲田さんも 『もう私の命もそう長くは有りません。 それで全財産を三つに分け一つは妻に、一つは娘に、 そして残りの3分の一はミャンマーで、 慰霊碑のお世話と維持をお願いしてある村々の住所と寺院名を書いて、 贈与書類を作り日本の弁護士に預けてあります』 と晴れやかな顔で微笑みながら仰った。 そんな暖かい心で、敗残の傷ついた日本兵に接してくださった 多くのミャンマーの人々に、 過っての負の歴史を引き継ぐ私達は、 どのように対応していけばよいのでしょうか? 敗戦60周年のこの機に、我々は過っての過ちの歴史を今一度考えて見ようでは? あなたは、“終戦記念日”派ですか?・それとも“敗戦記念日”派ですか?。 |