[3]死ぬために生まれてきた人間それでは、私たちは何のために生まれ、生きているのでしょうか? 命というものは、母体に宿った瞬間から刻々と変化し、 やがて誰もが、老い、病み、死んでいきます。 ブッダは、 『この世で起こる事象は何一つとして、自分の意のままに、 自分の思い通りになるものはない。生は苦である』と説かれています。 これは『生、老、病、死』だけをとってみても、 異論を挟む余地のないこの世の真実といえるでしょう。 何ごとも自分の思い通りには決してならないということを、 私たちは嫌というほど経験しているはずです。 『俺は巨額の財を貯えた、高い地位や名誉を得た。 俺には美しい従順な妻がいる。 賢明な孝行息子もいる』と自己満足しても、 それが何になるというのでしょう。 『子も救うことはできない。 父もまた救うことができない。 死に捉えられた者を親戚も救い得る能力がない。 ましてや財や地位、名誉が死に捉えられた者に何の援けになるというのだ』 『人生というのは、とてつもなく空しくて苦しく、無意味なものである』、 故に『一切皆苦』だとブッダは説かれています。 人間だけでなく、この世に生を受けた 『生きとし生きるもの』全ては、 『死ぬために生まれ、その死を一刻でも先へ延ばすために、 あらゆる努力をして生きている』というのが、この世の真実だと私は思います。 私たち人間は死を一刻でも先に延ばすため、死の恐怖から逃れるために、 毎日を生きているに過ぎないのです。 哲学者の梅原猛先生は、 『仏教は“人生をいかに生き、いかに死ぬか?”という問いに対する 真剣な答えの集大成である』と言っておられます。 (梅原猛著「仏教の思想」角川書店より)。 ユダヤ教やキリスト教の聖書には 『神様が、神の姿に似せ、人間を創りました』と書いてありますし、 他の宗教でも『私たちは一段と高い聖なる次元へ昇るための修行として、 この世へ送られてきた』というようなことが言われていますが、 仏教では、 実証できること、誰もが知り得て理解でき、 誰もが認め納得する真実以外を言ってはならない、と決められています。 もし仏教者と名乗る人が 『私たちはこの世で修行し、極楽へ行くために生まれて来たのです』とか、 『この仏様を拝めば、この経を唱えれば、 これを布施すれば、この仏像を家にお奉りすれば、 先祖供養をすれば、病気が治ります、 幸せになれます、商売繁盛します、云々・・・』と言えば、 その時点でそれは仏教でなくなり、その人は仏教者でなくなるのです。 仏教を修行させていただいている比丘が、 すなわち私が断言できることはただひとつだけ、 『人は死ぬために生まれてきたのです。人生の目標は死ぬことです』。
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