タイで三日坊主!
還俗式とその後の反省!
その後の日々の中で・・・。私のビザは12月17日にラオスからタイに入国して
3ヶ月後の3月17日が期限である。
この直前に帰国を予定していたが、私が借金して来た横浜のタイ人が私に
「ノンカイの家に行って来て欲しい用がある。」と手紙が来ていた。
私はそれを引き受け、2月下旬にノンカイに向かった。
それはもう一度、三つの寺に癒されたい為でもあった。
再得度は出来ないから時期を改め、
またいつかやろうと思った時の為。
そして心だけの再得度。
あのメコン河をもう一度脳に焼き付けて日本に帰ろうと思った。
ビエンチャンにも行くつもり。
旅の手段は以前と同じ。
2月26日に寝台列車でノンカイへ向かった。
あらかじめプラマート和尚の仏陀との写真を
板パネルにした額を御土産に作っておいた。
翌朝着いてミーチャイター寺に入り、
朝食が終る頃、比丘のみんなに“よそ者が来た”といった眼で見られたが、
すぐに思い出してくれた。
そしてみんなも正次比丘も
「よく来たな」とニコニコ顔である。
私が私服で帽子かぶっていて二ヵ月前にちょっと居ただけだから
すぐにはわからなかったという。
当然ながら藤川さんもネイトさんもカンボジアに行っているだろうから
この寺には居なかった。
プラマート和尚には「二階に上がれ」と招いて頂き、三拝してパネルをあげた。
こういう物はなかなか手に入らないから喜ぶというよりは驚いた感じの表情である。
(板パネルというよりは木目の板に写真挟んでラミネートかけたような額である)
プラマート和尚からも2月初旬の祭りの写真を見せていただいた。
参列していた藤川さんも大きな面構えで写っていた。
誰が撮ったか上手い写真であった。
ネイトさんが写っていないから撮影はネイトさんかもしれない。
ミーチャイトゥン寺にも行って挨拶して来る。
ここでもみんな気付いてくれるのに少しの間があった。
無関心な表情が笑顔に変わるその瞬間は面白い。
こちらの和尚さんにも写真をあげて来た。
笑顔で受取ってくれた。
わずかながらの恩返しである。
僧の時と違ってのんびりした時間を過ごした。
市場に行ってぶらついて食事もした。
寺の河の上のネイトさんが剃髪した涼み台でうたた寝もしてしまう。
心地良い眠りだった。
気がつけばサーマネーンが何人か座っていた。
僧の時より人懐っこく話しかけてくる。
少々ながら日本語を教えてあげた。
五十音をゆっくり言ってあげる。
以前、ネイトさんになついたのは俗人だったからかと思った。
ネーンから見て比丘は身分が違って話しかけ難くかったのかもしれない。
夜は久々にバーレーくんの部屋で寝たかったが、
プラマート和尚に招かれ二階の部屋で寝かせてもらった。
こんな日を二日過ごして、ブンカーンという友達の街に行った。
近いと思ってたらとんでもない遠さ。
ブリキのオモチャ型バスで二時間以上掛かってしまった。
150kmほどあるということだった。
横浜のタイ人のお姉さんが車の事故で入院したという話だったが、
郵便局に勤める姉さんはすでに元気に郵便局の窓口に居た。
日本の郵便局とさほど変わらぬ窓口風景である。
姉さんはわずかな日数で退院して元気に郵便局に勤めていたのだった。
家はメコン河に近い部落にある。
メコン河は当たり前だがとてつもなく長い。
中国青海省南部のチベット自治区から
ビルマ、ラオス、タイ、カンボジア、ベトナムの国々を渡り、
二つに分かれた河は幾つかの川に分かれ
南シナ海へ流れる4200kmの河である。・・・らしい。
(私が知っていた訳ではない。調べてみて知った。)
どこから眺めようとこのメコン河は心を安らげる魅力があるようだ。
そしてその友達の家の近くにもお寺はあった。
静かで広くて比丘の数も少なそうな寺だった。
見かけで判断するなら居心地良さそうである。
こちらの家の方々にも、私が得度した経緯や寺での日々を語った。
出来ればいずれもう一回やりたいことも言った。
あまり深い意味にはせず
“いずれ歳を取ったら”にした。
すると私が先ほど見てきた寺を勧めてくれた。
やるかやらぬか決断は出来ないが、候補地には含めた。
こちらの家でも二日間お世話になり、
ミーチャイ地区に戻った。
そしてミーチャイター寺に寄ってから、
すぐにビエンチャンを目指し国境を越えた。
(このラオスとタイ・ノンカイを繋ぐ橋を“ミッタパーブ橋”と言う。
ようやく見つけた日記にあった名前。
1994年にオーストラリアの資金援助で完成したらしい。)
一度行っているから不安はなかった。
タクシーも相変わらず人相の悪い兄ちゃん達だったが、
寺に着く前あたりで道を聞きながらチェンウェー寺を捜してくれた。
寺を入るとワンナーくん(英語マン)が庭を掃いていた。
私を見てまず無関心表情であるが、二秒後に気がついてニコッと笑った。
やっぱりこいつはいい笑顔している。
迎え入れてくれて和尚さんのところへ引っ張ってくれた。
御堂の中ではブンミー和尚(はっきりはわからないが名前はブンミー。)が
ネーンに勉強を教えていた。
私は三拝して挨拶した。
御土産は以前撮った写真だが、
それを渡す前に「ここに泊まって行きなさい。」と誘われ
「では4〜5日泊まっていいですか。」とお願いした。
前回は増築中だった御堂の二階はきれいに建ちあがっていた。
招いて頂いたのは何ともきれいな部屋。
ホテルとまではいかないが、近代的な清潔感ある部屋だった。
以前の木造のクティで寝たかったが「あそこはもう壊すから入れない。」と言う。
そういえば、おじいちゃん比丘が居ない。
どうしたのか聞くと「入院しているが直に戻って来る。」と言われた。
体調悪そうではあったからその後、思わしくない状態も不思議ではない。
一緒に居たチビくんは“ケーン”と言う名前で九歳だった。
(五歳ではなかった)私は一週間ほど滞在し、ビザ申請を兼ねて、
ゆっくりビエンチャンを観光気分で過ごした。
ネーンのワンナーくんとシーポーンくんと街に出て市場に行ったり、
独立記念塔(凱旋)に登ったり以前とはまた違った
束縛のないのんびりした時間だった。
カンペーンくんとも観光地の寺や博物館にも行った。
ラオスの空撮写真があったり、
何かの戦争で破壊されたらしいラオスの仏像も展示されていた。
ラオスのナムグム湖の模型もあった。
この造りにはちょっと興味を覚えた。
いずれナムグム湖やジャール平原とかを見に
ラオス国内は旅してみたいと思っていた。
(95年当時、観光ガイドなんてあったかどうかわからない。
素人の一人旅は無理だと思う。)

↑ラオス・独立記念塔にて
左:シーポーンくんと
右:地元の女の子
市内を歩いていると、カンペーンくんが知り合いのおばさんにニーモンに呼ばれ、
私も一緒に呼ばれたがそこは日本人の“服部”という名の屋敷だった。
日本人は居なかった。
日本の和風の造りの豪華な室内に、
立派な雛人形が飾られる大きな雛壇があり、
カンペーンくんが主に話してたが、
どういう日本の方が建てられたのか延々謎のまま帰って来てしまった。
こういうところが藤川さんによく
「お前は探究心が足りんな、知ろうとせんな。」と言われたものだが、
言葉の問題で聞き様がないのだった。
歳はかなり違うのだが、カンペーンくんにはお世話になったなあと思う。
一緒に歩いても辛かろうと冷たい飲み物をあげても遠慮がちな上、
かなりの距離を歩いて付き合ってくれた。
ネーンではまだ大人ではないから比丘にはなれない。
ネーンは戒律もまだ少ない緩やかなものだが、彼はもう比丘の風格があった。
午後には食事を摂れない僧達である為、
夕方に私はチビのケーンちゃんを連れて、
メコン河沿いの屋台に“カオトム”を食べに行った。
タイで言うクィティオ風の麺なのだが、
ラオスではこれをカオトムと言う。
タイでは御粥のことをカオトムと言う。
安い食べ物なのだが、美味しくて私は毎日食べても飽きなかった。
(カオトムは“ちまき”の意味もあるらしい)
ケーンちゃんにはかわいそうなので一回だけレストランに行って、
ごく普通のタイ・ラオス料理だがちょっと豪華な料理を堪能させてあげた。
レストランと言ってもちょっときれいな野外の食堂である。
ラオスの女性は巻きスカートを穿く。
スタイルのいい若い女の子が穿くととても色っぽく可愛い。
私も母親と知人の女の子にあげようと二つ買った。
穿かせてラオスを懐かしく思い出そうという魂胆である。
ワット・チェンウェーにスリランカのお坊さんが泊まりに来ていた。
やはりビザ申請の為だった。
私らと同じくワット・ミーチャイターで紹介状を書いてもらって来ていた。
タイではバンコクのサイタイカオにある寺で修行中らしかった。
帰りは一緒にワット・ミーチャイターに帰ることになった。

↑ラオスのカオトム(ピンボケですいません)
タイのクイティオのように、とうがらしやナンプラーで味付けして食べる。
麺が細うどんのようで、タイでいうクイティオそのもの。

↑寺でのタンブンの女性もきれいな人。
巻きスカートもきれいです。
ブンミー和尚にも、
私は「またいつか再得度してみたい」と言ってみた。
ここでも深い意味は持たせずに聞いた。
やはり言うことは当たり前の事で
「次やったらスックはしないことだ。」と言われる。
いろいろな意見を聞くごとに
タイ・ラオス人が考える出家に対する当たり前の基準がようやく見えて来た。
やはり安易に“二度目”をやってはいけないのである。
この寺を去る日にブンミー和尚から私の肩を抱き寄せ
「お前が帰ってもずっと忘れないよ。」と言ってくれる。
実はこの和尚さんもちょっとオカマっぽい。
嬉しくもちょっと気持ち悪かった。
「また来ます。」とは言っても次は本当にいつになるやら。
「忘れない」と言われても忘れるものである。
本当に忘れられないうちに姿を見せたいものだと思った。
別れ際にブンミー和尚さんから右腕にサーイシン(聖糸)を巻いてくれた。
寺のみんなは
「何年もしたら各自、進路決めて居なくなるから早めに遊びに来てね。」と言う。
嘘になるかもしれないが、「また近いうちに来ます。」と
挨拶してスリランカのお坊さんとタクシーに乗って寺を去った。
右側通行の車道やラオス文字の看板ともまたしばらくお別れである。
ノンカイのミーチャイター寺に戻って、
外で花壇に水を撒いていたバーレーくんに逢った時は、
彼が喜んで私のカバンを持って部屋に運んでしまった。
プラマート和尚は居なかったので、
この日はバーレーくんの部屋にスリランカのお坊さんと共に泊めていただいた。
そしてまたのんびり二日ほど過ごしたのちバンコクに帰った。
プラマート和尚にも
「私が将来、この寺で再得度していいですか。」と聞いてみた。
「ダーイ!」と答えてくれたことには安堵感が漂った。
また還俗もしていいと言う。
「その前にもっとタイ語の勉強をしておきなさい。」と付け加えられた。
一番緩やかな理想に近い御返事だった。
しかし、時間が経てば私の気が変わるだろうという
プラマート和尚の読みが感じ取れた。
だから再得度も還俗してもいいと言ったのかもしれない。

↑スリランカのお坊さん(タイの寺に在住)とブンミー和尚、
ケーンちゃんと還俗後の私。ラオスビエンチャンのチェンウェー寺にて
バンコクに戻ると今度はジムの看板選手のグルークチャイが得度する為、
タイ南部の出身地、ナコーン・シータマラートに帰った。
彼の得度する寺はタマユット派だそうである。
戒律が厳しいと有名である。
もし私がそこで得度したいなんて言っても許されないだろう。
得度式の御経は覚えなければならない。
寺ではカメラは持てないだろうし、蚊取り線香も焚けないだろう。
グルークチャイは二週間ほどで帰って来たが、
彼の場合は試合があるので期間は短い。
有名選手はみんなそうである。
しかも得度した期間の分、試合間隔が空くことなく、
またすぐ試合に復帰するのである。
ほぼ月一回ペースの試合間隔の彼らは、素人には想像つかない強さを持つ。
寺での日課を聞いてみると、朝4時から読経が二時間。
その後ビンタバーツに行き、食事があり9時から読経1時間。
11時過ぎに昼食。
午後は少々暇だが夕方に掃除があり、17時から読経1時間。
そして21時にも懺悔の読経があるということだった。
これが修行寺の当たり前の日課かもしれない。
私だったら三日ももたないだろう。
二日坊主である。
けどやってみたいそんな寺の日課である。
バンコクに戻ってからまもなく、藤川さんに手紙を書いた。
内容は大真面目な感謝の言葉である。
何を書いたかは覚えていない。
しかし一番上の宛名に「じじいへ」と書いた。
精一杯の反抗だった。
一応の筋を通し、社交辞令的感謝の言葉を添えて送った。
これが最後の連絡である。・・・と思っていた。
そしたら二週間後、藤川さんから来ないと思っていた返事が来た。
「うわ〜、何をまたくどいこと書いてあるやら」と思ったら、
「まだ居ったんけぇ〜、じじぃで悪かったなぁ〜!」という始まりから、
かなり砕けた表現で朗らかな内容に戻っていた。
これでまた手紙を書く気にはなれた。
返事がなければ縁は切れたのに。
何でこちらから切らなかったのだろう。
その時は、またこの先、逢うことになるとは思わなかった。
やがて日本に帰る日も近づいて来た。
キックボクサー関係の来タイのお手伝いや、
日本に向かうタイボクサーのビザ申請などのお手伝いで資金も援助され、
少々ながらカメラの仕事を含め、
帰国は4月22日にまで延びていた。
その帰国前にショックなことが起きた。
アナンさんの家に居た選手のオームくんが12日にタイの正月、
ソンクラーンの為に田舎のナコーン・シータマラートに帰る際、
選手仲間と乗っていたトラックが追突事故を起こし、
荷台に乗っていた仲間の内、オームくんだけ車外に吹っ飛ばされ
亡くなられたということだった。
二年前にはジムで立嶋くんとじゃれあっていたり、
私に「ファイティングポーズ撮ってくれ」と頼まれて撮ってやったりした。
良くないことが起こったのだ。
バーツと黄衣があったから?
どこかに隠し持っているから?
アナンさんにこのことを言われるかと思った。
が、全く関係なく普段と変わらず私に朗らかに接してくれたアナン夫妻。
それから私の帰国日にバーツと黄衣を預かってくれた
チャンリットさんの家に行って黄衣をカバンにまとめる準備をした際、
以前から気管が悪かったという事情もあるが、
チャンリットさんの奥さんが入院したという。
全く不運は本当に付きまとうのかと真剣に不安になったが、
チャンリットさんも全く気にしていない。
言葉だけでなく私に対する当たり障りが全く変わらない。
有難いやら申し訳ないやら。
タイ人の直接関係ない運命的なことには気にしないおおらかさに救われた。
※チーオン(衣)の着方ならこのサイト。
おなじみ、日本納骨堂の中原さんのサイトに
クルクル着付け教室があるので、それを参考にやって見ましょう!
<バックナンバー>
>第1回・藤川さんとの出逢い
>第2回・得度の決意
>第3回・修行に向けての準備
>第4回・人生最後の式典・得度式
>第5回・苦痛の日々
>第6回・バンコクへ初出勤
>第7回・慣れた頃
>第8回・ビザ取得へ緊張のラオスへの旅(前編)
>第9回・ビザ取得へ緊張のラオスへの旅(後編)
>第10回・平穏な日々
>第11回・還俗に向けてカウントダウン