タイで三日坊主!
還俗式とその後の反省!
その後の日々の中で・・・。やがて髪も少々だが風になびくほどに伸び、その頭の感触は懐かしく、
またツルツル頭も楽でよかったとこちらの懐かしさもあった。
帰国までに果たせなかったことは、
バンコクでお世話になった佐藤さんと小林さんに御礼を言えないままだったこと。
時間はありながら捜し尋ねることは出来なかった。
感謝の気持ちはどこへやらである。
またタムケーウ寺のコップくんに
テープレコーダーでの読経を録音出来なかったことも心残りだった。
これらも探究心や行動力が足りない結果である。
私が僧侶となってやるつもりはなかったが出来るならやってみたかったことは、
藤川さんのように黄衣のまま日本に帰って来ることだった。
黄衣をまとって過去の職場に挨拶に行っていたら、
アパートを引き払っていないとして管理人に家賃を払いに行ったら、
卒業校の写真学校や田舎の高校に挨拶に行ったら、
実家に行ったら、
友人が練習しているキックボクシングのジムに挨拶に行ったら、
いつも行っていた銭湯に行ったら、
一人では行けないが後楽園ホールに行ったら、
知人の驚く顔を考えるだけでゾクゾクして面白いのである。
今度、もし得度することがあったらやってみようと思う。
藤川さんはタムケーウ寺に居て、
どこか旅に出るごとに和尚さんが「旅する金はあるのか?」と心配されたらしいが、
その度に藤川さんは「ミー、ミー、ソーンパンバーツ!」
(有る有る、2000バーツ=約8000円)と言って
鬱陶しい和尚さんをあしらって出て来たらしい。
どこに行くにも「ソーンパンバーツ!」。
日本に帰るのも「ソーンパンバーツ!」。
藤川さんは「日本に帰るのに2000バーツで行って来れる訳がない。
そんなことは和尚もわかっとるやろう。
和尚も『こいつ、ワシを舐めとるな』と気付いとるやろうなあ。」と笑っていた。
藤川さんの言葉だが、巡礼の旅はしたほうがいい。
いろいろな体験・発見が出来るからである。
私もとても度胸なく、和尚さんの寺から出さない姿勢に救われたが、
結果的に得したか損したかわからない。
藤川さんは私を連れてかつてのスパンブリーの寺や
いろいろな寺に行こうと計画していたが、
半年ぐらい出家していたら月に一回ペースでどこか巡礼して、
面白い本が書けるぐらいになったろうと思うと
やっぱりやらなかったのは損していたのかもしれない。
またそれを実現するには、和尚さんと思想の合う寺で修行したほうがいい。
寺選び巡りは出来るものかはわからないが、
人伝てでも調べる価値はあろう。
また寺の移籍というべきか、修行の場を換えることは
藤川さんのように可能ではあろうが、
それも幾パンサーか待たねばならないかもしれない。
そして得度した寺の肩書きは比丘である間は消えない。
坊主手帳には得度した寺と和尚さんの名前が残る。
また寺で何もすることが無かったとしても信者さんから頼まれる場合を考え、
施しを受けた時の御経は覚えておいたほうがいい。
私がラオスでネーンとやった御経は知っている範囲のものでよかったが出来ないと
恥かくところだった。
それは突然やってくる。
ビンタバーツでも頼まれるかもしれないのだ。
この年六月、藤川さんが日本にやって来た。
前年の六月も来ていた。
手紙連絡は続いていたので、逢わないつもりも何となく引っ張られ、
いずれも私は少々のお世話をさせて頂いた。
前年は得度前のお願い参り、この年は得度後の御礼参りである。
相変わらずよく喋っていた。
ムカつくことも言われるがその後毎年、少々ながらのお昼御飯を御一緒している。
私が還俗後に藤川さんに逢った時、
言われた言葉が「お前、やっぱり少し変わったなあ。
以前とは違うと思うた。
修行して落ち着きが出たなぁ」と逢って間もなく言われた。
「逢ってすぐわかるものか!何も話してないのに。
飛行機の中で御世辞を考えて来たな、ジジィめ!」素直でない私はそう思った。
でも「変わった」と言われることによって
「変わらなきゃ」と思ったかもしれない。
修行の成果は寺にいた時でなく還俗した直後でもなく、
ジワジワと永い年月を経て効いて来たかもしれない。
黄衣をまとっただけの私にタンブンしていた信者さん達に
何かお返ししなければならないという責任は今も感じている。
そのお返しはタンブンした人に直接は返せないから
日頃の行ないを良くして人の縁を通じて廻ってくれればと思う。
こんなこと言うこと自体、永い年月を経て私は変わったのかもしれない。
あれから十年近くも経つと藤川さんも喋る勢いがおとなしくなってきた。
あまり長話しをしなくなってきた。
されても私はストップに入る気でいる。
以前はよく苦言を言われると
「こんなジジィ、付き合うのもうやめた。」
と思ったこともある。
しかしズルズルと十年付き合ってしまった。
それはやはり自分を叱ってくれる人が必要ではないかと思ったからである。
私の場合、一番最初に就職した会社を辞めてから、
目上から怒られることが無くなってしまったのである。
フリーになってしまうと上司という存在がなくなる。
人間はやはり注意してくれる人がいないと
正しい道がわからなくなるのではないかと思う。
間違ったことをしても気がつかないまま過ぎてしまうのだ。
そういう意味で藤川さんにちょっと苦言を求めてたまに逢う。
言われたらムカついて言い返す。
そんな姿を、オモロイ坊主を囲む会の面々には見せられない。
その面々に「藤川さんに何て失礼なことを言うんだ〜!!」と
私が袋叩きにされそうである。
私は密かに“藤川ジジィを懲らしめる会”を名乗っているのだが、
誰も賛同してくれない。(悔しい!)
私は藤川さんに注意や苦言はされたが、
怒鳴られたり殴られたりは全く無い。
体罰が無いのはウチの親父と同じである。
これは有難いことかもしれない。
比丘だから当たり前ではあるが。
これから藤川さんに付いて修行しようと思う人も、
藤川さんから引っ叩かれることはまず無いだろう。
しかし泣かされますぞ。
私もネイトさんも泣かされているのである。
大人になると些細なことでは泣かなくなり、
泣きたくても涙も出なくなるが、
心は泣いたに等しいぐらいの感情にはさせられるのである。
ホント“意地悪ジジィ”と思うことだろう。
またどこの世界(業界・組織)に行ってもきつい事を言ってくれる
師匠と呼べる人は居たほうがいいだろうと思う。
私はタイの仏教習慣を思い知らされてから
再得度は取り消した。
が、自分のやり残した仕事が残っている感情は拭い去れない。
タイ人関係者には内緒でまたいつかやるかもしれない。
おそらくはやらずに歳を取って人生を終えるとは思うが、
人間の考え方は一生涯同じではない。
考え方はどんどん変わる。
十二年前まで女遊びしていたあの地上げ屋が
仏陀のもとで修行しているのである。
もし私が誰とも連絡を絶ったら、
ノンカイあたりの寺を捜せば見つかるかもしれない。
でも捜さないでね。
バープだから。
もし生涯仏門で過ごすと決心したら今度はみんなに宣言して、
堂々とやることだろう。
しかしそんなことは絶対有り得ないと思っている現在である。
藤川さんはよく寺を離れて巡礼をする。
私は、初めは長期に渡って何しに日本へ来るのかと思った。
ビルマに行ったり、カンボジアに行ったり、
そんなに行く必要があろうかと思った。
しかし、後々にその活動結果が出て来ている。
ホームページにある活動内容には頭が下がる思いである。
今後も活動パワーは衰えることなく続くことだろう。
今後は敬意を表して“藤川様”と呼ぶのは恥かしいので、
今後も親しみ込めて“ジジィ”と呼ばせていただくことをここに宣言して、
お付き合いを続けようと思うのである。
この“タイで三日坊主!”のタイトル名は、
私がいい加減な坊主だったので、三日坊主を繰り返した結果、
三ヶ月に達したということでそう名付けました。
私は仏教習慣の何も知らないまま始めてしまった。
あと2〜3年待って得度すべきだったかもしれないが、
時期的に1994年しか出来なかったのも運命だった。
仮にタイ人の仏教習慣を勉強していたら御釈迦様の教えはわからなくても、
やって良い事と悪い事の区別ぐらいついたろう。
アホな発言は避けられたのにホント恥かしい。
ネイトさんはその後、連絡は取れず行方知れずである。
おそらくは約半年の修行の後、
還俗して一端、日本に帰られてからアメリカに帰られたのではないかと思う。
私が持ち帰った黄衣とバーツは今でも部屋にある。人には見せられない姿ながら、
黄衣をまとって御経唱えて一人で自分に酔っていたことが何度もある。
こんな姿で部屋に居たら宅急便が来ても応対出来ないし、
大地震でもあったら逃げるに逃げられないなあと思う。
96年の元旦の朝には自分がニセ坊主となって
部屋で自分の災難除けとした初詣代わりをやった。
ニセ坊主だけに効果はないだろうが。
明治時代の岩本千鋼、山本しん介の方々ならいいが、
現代ではタイでのニセ坊主は犯罪となる。
水浴び用のパー・ソンナームだけは今、
カメラ用のシリコンクロスとなっていつもカメラバッグに入れて持ち歩いている。
黄衣は今はもうまとえない。
すっかり忘れてしまった。
私の得度式に参列してくれた高津広行くんは今も王座を目指し現役である。
彼も私の後に得度を経験している。
彼も試合を挟みながらの得度だったので10日間ほどしかやっていないが、
その真面目な修行の密度は遥かに私を越えている。
その体験記は彼のホームページに載っているので機会があれば見て頂きたい。
一度タムケーウ寺に行って和尚さんに挨拶をして来なければならないと思いつつ、
全くタイに行けない。
2000年の12月には仕事で行ったが、
寺に行く時間は無かった。
03年の3月にも行ったが、これも体調の都合で時間が無くなってしまった。
今年こそ行こうと優柔不断な決意をしているしだいである。
寺の修行も、例え土建業でもよかったかと今更ながら思う。
本業が土建業だった比丘達には勝てなくても、
そんな小さな世界のことは気にすることはない。
耐えるのが修行だったのだ。
この体験記も日記の羅列のようになってしまったが、
判り易くテーマごとに書くべきだったかとも思う。
テラワーダ仏教をどのように感じたか、
御釈迦様の教えとは何か、
修行を通じてどれだけ成長したか、
といった真剣な修行結果を望む方からは非難を浴びそうな内容である。
だから初めは「真面目に修行している人に悪いから」と断った。
それでも藤川さんから
「それを読んで得度しようという気になった者が
一人でも居れば仏教に理解を広める切っ掛けになるやろ!」と言われて
自分の恥をさらすと共に藤川さんのことも当時の感情で書かせて頂きました。
私が得度した時、藤川さんは再得度して一年あまり。
俗人時代の頑固な姿勢も抜けきれず、私には厳しく冷たくされたのかもしれない。
今ではずいぶん優しくなって十パンサーを越える修行は比丘として
長老と呼ばれる地位に達し、また更に悟りに近づいたようである。(言い過ぎか)
タイ語の表現や、仏教用語の中で間違った言葉使いがあったら申し訳ありません。
また得度を「ブアット」と言わず、還俗を「スック」と言い、
和尚さんを“アーチャーン”と言おうかどうか迷い、
また托鉢を“ビンタバーツ”と言ったり、
寺をワットと言ったり寺と言ったり、
表現を統一しないで日タイ混じり、
判り難いところも申し訳ございませんでした。
幾らか知ったか振りの文章もありますが、
藤川さんがメールで教えてくれた解釈もございます。
ラオスの独立記念塔は当時“戦没者慰霊塔”とも言ったらしく、
現在は“凱旋門”と言うらしいです。
まだまだ訂正箇所が有りそうですが、これにて御免!
こんな体験記を読んでやってみたいと思った方、
優しい藤川さんのもとでもまた違ったルートで機会を掴んだとしても、
寺の修行を楽しんで人生を充実させる術を掴んで来てください。
以上、おしまいぢゃ!
※チーオン(衣)の着方ならこのサイト。
おなじみ、日本納骨堂の中原さんのサイトに
クルクル着付け教室があるので、それを参考にやって見ましょう!
<バックナンバー>
>第1回・藤川さんとの出逢い
>第2回・得度の決意
>第3回・修行に向けての準備
>第4回・人生最後の式典・得度式
>第5回・苦痛の日々
>第6回・バンコクへ初出勤
>第7回・慣れた頃
>第8回・ビザ取得へ緊張のラオスへの旅(前編)
>第9回・ビザ取得へ緊張のラオスへの旅(後編)
>第10回・平穏な日々
>第11回・還俗に向けてカウントダウン