『他人に食を乞うからとて、それだけでは托鉢僧なのではない。
汚らわしい行いをしているならば、それでは托鉢僧ではない。
この世の福楽も罪悪も捨て去って、清らかな行いを修め、
よく思慮して世に処しているならば、かれこそ托鉢僧と呼ばれている。』
ダンマパダ 第十九章 二六六・ニ六七
『善い人々は、僅かであっても正しくわかち与えるならば、多くの人々に勝つ。ただ物をくれてやることが勝つのではない。たとい僅かなものであっても、信仰心をもって与えるならば、この人は来世において安楽となる。わかち与えることと戦闘とは相等しいと人々は言う。これらの美徳は悪人には存在しない。人々にわかち与える時は、戦闘の時のごとくである。執着する心がなくて施しを与える人は、幾百の障害にうち勝って、敵である物惜しみを圧倒し、勇士よりも勇士であると、われは語る。』
ウダーナヴァルガ 第三十章 八・九・十
以前訪れた韓国の寺は、「一日不作、一日不食」といって、自分で耕作して作った食物を生活の糧としていたが、北朝鮮ではどうやら国家からの給料で生活しているらしい。
俺は少しずつ聞きにくい質問を投げかけていった。
『タイでは王や首相がお寺に来ても、比丘から王や政治の権力者に礼拝を捧げることはありません。王や首相が比丘に五体投地の三拝をします。比丘が礼拝を捧げるのはブッタと先輩比丘だけです。北朝鮮ではどうですか?』
『ほぼ同じですが、少し違います。礼儀としては仏様以外にも礼拝をします』
『それは金将軍親子に対してですか?』
『・・・・・・・・・・・・・・・・』通訳が訳してくれない。
タイでは仏教と政治は完全に切り離され、寺や比丘はサンガ法という一般社会の人々とは違った特別の法のもとに属し、出家者は(タイ人の場合)住民票もなくサンガの発行する出家証明書がそれに替わり、パスポートの名義や預金口座の名義も、出家時に師匠につけていただいたパーリ語の法名(俺の場合はCHINNAWANSO)となり、兵役義務も納税義務(職業に従事しないのだから当然だが)も免除されるかわりに、一般国民としての当然の権利(選挙権など)を失い、また犯罪を犯しても警察に直接逮捕される事もなく、サンガの裁判で裁かれ有罪の判断が下りた段階で、サンガに強制還俗さされ国家(警察や裁判所)に引きわたされる。
だが、北朝鮮の僧侶が国からの保護で生活しているということは、仏教も政治の管理下にあるということなのだろう。
俺はさらに続けた。
『和尚は何処のお寺で、どんな師匠について何年間佛教修行されたのですか?』
『平壌に佛教学院と言う、僧侶になるための勉強をする学校があって、そこで一年間学んだあと、政府が何処のお寺へ行くかを指定し派遣されるのです。我が国の僧侶は全員、この学院で佛教を学んだ者です』
『その佛教学院は政府がやっているのですか?一年間の授業料はいくらですか?』
『そうです。政府が佛教の発展を願ってやっているので、授業料は必要ありません。むしろ毎月国から手当てが出ます』
『タイの比丘はお釈迦様がこの世で一番尊く偉いと信じているのですが、北朝鮮ではどうですか?貴方は金将軍親子と釈迦尊とのどちらが尊いと思っていますか?』
『・・・・・・・・・・・・・』通訳が訳してくれない。
俺はこの質問を最後に、これ以上話をする気をなくしてしまった。日常会話ならともかく、仏教の話となると通訳が心許なくなり、どうも話がきちんと通じてない(正直に訳してくれない)ような感じなのである。この質問に対する返答もなんとなく誤魔化されてしまい、会話として成り立たなかった。俺は、朝鮮語が話せず通訳を通じなければ、直接相手から話を引き出せないもどかしさを感じ、これ以上話しても無駄だと諦めた。
安和寺の住職が僧侶になって二十五年ということは、朝鮮戦争の後に出家したということになる。俺はできれば、その前の時代の僧侶に会って話を聞きたいと思っていた。
だが、二十五年ということは出家歴から言えば俺から見れば大先輩にあたる。
テーラワーダ仏教では、年齢や出身に関わらず、先に出家した比丘が上座・上位とされていて、自分より先に出家された先輩比丘を<それが例え一日でも極端に言えば一秒でも>敬い、教えを請いその教えに従う。本堂での読経や何らかの儀式のときには、出家の順序に従い座するので先輩比丘が上座に座する事になり、一名を“上座部仏教”と呼ばれている。
このテーラヴァーダ佛教の戒律に従い、住職に向かって五体投地して三拝する俺に対し、安和寺の住職は恐縮した態度を示して、次のようなメッセージを残してくれた。
『南北に分かれた朝鮮民族の統一に、仏教に携わる人間として力を貸してほしい』と。
この寺の「五百殿」に五百羅漢の像が奉ってあったが、五百羅漢とは阿羅漢に達せられた五百人の修行者の像の事で(阿羅漢とは『大乗・小乗を通じて最高の悟りを得た者を指す言葉で、供養を受けるに値する者、供養を受けるに相応しい者と言う意味で、二度と再び迷いの生を受けない(輪廻)しない者・修行完成者』(仏教学辞典・法蔵館発刊・より)
数えてみるとご几帳面にも500体きっちりの阿羅漢像が奉ってあった。俺は四国八十八ヶ所霊場でのお寺を始め、日本各地のいろいろのお寺で五百羅漢像と称するものを参拝させて頂いたが、まだ500体揃った羅漢像にお目にかかったことは無かった。このお寺の羅漢像は日本で見た羅漢像と比べれば、小さくて作りもお粗末で決して立派だったとは言いづらいが、500体が一同に並べ奉ってあると、見る者を圧倒する迫力があった。
『愛すべく喜ばしい五欲の対象をすてて、信の心によって家を出て、
苦しみを終滅せしめる者であれ。
われは死を喜ばず。よく気をつけて心がけながら、死の時の至るのを待つ・・
ニサバ長老』
テーラガーター(二つずつの詩句の集成)第二章 百九十五・百九十六
『愛欲よ。われらは、お前を殺してしまった。
われらは、いまやお前に負い目はない。
われらは、いまや安らぎニッパーナ(涅槃)におもむく。
そこに至れば悩む事がない・・
ゴータマ長老』
テーラガーター(二つずつの詩句の集成)第一章 百三十七・百三十八