第2次世界大戦中、日本軍は占領下のビルマから国境を越えて、
インド北東のインパール(インド・イギリス連合軍が
中国の蒋介石軍に武器弾薬を補給するための基地があった場所)を
攻略することを企てました。これをインパール作戦といいます。
当初から一発の弾丸も、一粒の米も補給されなかったという
無謀極まりないこの作戦は、撤退の判断も遅れたため、
その戦死者の8割以上が戦闘ではなく、
雨季を迎えた熱帯ジャングルを敗走する途中マラリアや
栄養失調で死んでいったといわれています。戦死および
戦傷病で倒れた日本軍兵士は72,000人。
生き残った兵士はわずか12,000人に過ぎなかったそうです。
今回のツアーの大きな目的のひとつは、
このインパール作戦の生き残り兵を訪問し、
お話をお伺いするというものでした。
その人は中野弥一郎さん(新潟県出身、大正9年・1920年生まれ)。
終戦後も日本に帰ることなく、ビルマに残って家族を持ち、
現在はタイのメソットに住んでいらっしゃる方です。
お話を伺うといっても、どこまで聞いていいのやら、
遠慮や戸惑いの中、私たちの質問はてんでバラバラなものとなってしまいました。
戦争中のことを聞いたかと思えばお孫さんの話になったり、
同じ質問を別の人間が繰り返してしまったり・・・。
そんな私たちにも中野さんは、終始穏やかな表情で応対してくださいました。
ビルマで終戦を迎えた中野さんは、収容所に強制連行されますが、
仲間数人と命がけで脱走、ビルマの少数民族のひとつ、
カレン族にかくまわれます。そこでは日本人だと気づかれないように、
やしの実で顔を黒く塗り、脱走した仲間同士の会話でも日本語は一切使わない、
という生活を送ったそうです。
その後カレン族の女性と結婚、ビルマの革命時にメソットに
移り住んだ中野さんは、ほんの15年前まで日本人であることを
隠し続けて生きてきたのです。
その手を握り「よう生きていてくれた」と涙ぐんだ藤川さんの言葉が、
中野さんが生きてきた人生の壮絶さを物語っているように感じました。
「日本に帰りたいとは思わない」という中野さんは、
メソットに骨を埋めるつもりだとのこと。故郷の先祖の墓には、
歯を納めてあるそうです。
壁には家族の写真と並んで昭和天皇の写真。
棚には戦艦大和の模型や日本の書籍。「日本語は忘れてしまった」と
口では言いつつ、毎朝読売新聞を読んでいらっしゃいます。
すべてを達観したかのような、その姿、表情は、私たちの心の中に穏やかな、そして力強い印象を残してくれました。


中野さん、どうぞいつまでもお元気で、お健やかにお過ごしください。そして日本をずっと見守り続けてください。ありがとうございました。