自己紹介-藤川師の半生

みんなありがとう


地上げ屋からタイ進出へ
十代の頃、札付きのワルだった私は長じては「地上げ屋」と呼ばれ、バブル経済の絶頂期には湯水のように金を使う生活をしていました。
そしてバブルが弾ける兆しが見え始めた1991年、私は日本とタイの合弁会社を設立しました。
タイではだれでも一度は出家します。日ごろからタイ従業員が「私は何ヶ月出家した、何年出家した」と誇らしげに言うので、「おまえらにできることが、日本人の俺にできないことはない!」とタンカを切ったのがそもそもの始まり。結局、タンカを切った手前、三ヶ月だけ出家することになったのです。92年も年の暮れの押し詰まったころのことでした。



一次出家のはずが・・・
こうやって一次出家者としての生活を始めたわけですが、私はなにぶんにも生まれてことかた、仏教というより宗教にまったく関心も興味もありませんでした。
ところが、お経の「オ」の字も知らない私が、黄色い衣を着ているだけで、見知らぬ人から食事の供養を受けたり、知らないお寺に大きな顔をして泊めてもらうのは、
なんだか詐欺ではないかという引け目を感じるようになったのです。せめて約束の3ヶ月だけでも、仏教の勉強をしようという気持ちになってきました。

そう思って、改めて周りの比丘たちを見回すと、不思議なことにかねも女も酒もまったく縁のない生活なのに、彼らは明るさに満ち溢れた顔をしていました。
私にとってはそれがないと生きていけない、というくらいウェイトの高いものなのに、
なんであんなに明るく楽しそうに暮らせるのだろうか?
一体ブッタは何を教えたのだろうか、と気になってきました。
そう思ったらいてもたってもいられず、早々に托鉢を切り上げ、日本語の資料が揃っている図書館で上座仏教の勉強を始めたのでした。

毎日、朝の五時から夜の十一時ころまで、それこそ生まれて初めて、
と言ってよいほど真面目に真剣に仏教の勉強をしました。
そのときのショックは大きく、仏教は死後の世界のためでも、死者のためでも、先祖供養のためでもなく、いま現に生きる人間のために、人生の指標や生き方を説いた教えであることを知り、目から鱗が落ちる思いがしました。
2500年も前に、こんなにも合理的でしかも誰にでも理解ができるように時、
みずからも実践した男がいたとは---。
私はその教えにすっかり魅了され、人間ブッダにひかれ、ほれ込んでしまったのです。
三ヶ月の出家の予定が五ヶ月になり、会社に戻ったときには、
あんなに好きだった酒を飲んでも、女の子を追い掛け回しても、金をもうけても、
心が浮き立つことはありませんでした。
どうしようもなく虚しく、のこされた短い人生をこのまま終わらせたくない、という思いがふつふつとわいてきて、とうとう会社も何もかもすべて捨てて本気で出家をしたのです。


日本の皆様へ

こうして私はタイ・上座仏教(テーラヴァーダ仏教)の僧院比丘にさせていただき、10年の月日が過ぎました。
おかげさまで今は出家する以前には考えられないような安らかで満ち足り充実した日々を過ごさせていただいています。
日本から離れ、俗世から離れると、今の社会の様子を耳にするにつれ、いつも心が痛んでいます。
人生の目的を見失い、将来の夢がもてなくて、目先の快楽や損得に走る若者たち。
仕事や老後の見通しがつかず不安におびえる人々。
大人世界の縮図のような子供世界のイジメ、少年凶悪犯罪。
仏教学者のひろさちやさんの言葉を借りれば、我々日本人は宗教という羅針盤を持たずに、スピードメーターだけで人生という大海を航海しているようなものです。そして、今、日本人は羅針盤のない不幸に気づいたのです。
現代人はそういう困難に唖然としています。今、宗教の必要性に気づいたのです。
しかし、葬式と先祖供養という儀式ばかりにうつつを抜かしている仏教では、私たちの羅針盤にはなりえません。
それは思想をもった仏教、思想としての仏教です。
つまり、<<仏教の思想>>が困惑する現代日本人を救ってくれる可能性があると、遠くタイの寺より日本に思いを馳せています。


『皆さんが幸せでありますように』
『皆さんの悩み苦しみがなくなりますように』
『皆さんの願い事がかないますように』
『皆さんがいつも元気で明るく健康でありますように』
『皆さんにも悟りの光があらわれますように』
『生きとし生きるものが幸せでありますように』 合掌。

泰国 ポムケウ寺比丘 藤川(チンナワンソ)清弘


※上記文章は「致知」に掲載された藤川師の原稿を加筆・訂正したものです


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